つまんねえ古文を読んでみようや!土佐日記を現代語訳してみた。

 

センター試験本番の古文を読みながら感動して泣いたはらくん(@harakunishere)です!

土佐日記って知ってますか?土佐日記は古文の教科書でよく見かけますね。

大学受験でもよく出てくるこの土佐日記を今日は現代語訳していきたいと思います!

「古文なんて興味ねぇ!」

「はぁ?何歳だと思ってんだもう大学受験終わったわ!」

て方もまあ楽しんで貰えるように書くので是非読んでみてください!

土佐日記とは

土佐日記』(とさにっき)とは、平安時代に成立した日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事をジョークを交えて綴ったもので、成立は承平5年(935年)頃といわれる。古くは『土左日記』と表記されていた。

日本文学史上、おそらく初めての日記文学である。紀行文に近い要素をもっており、その後の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与えている。『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』などの作品にも影響を及ぼした可能性は高い。

延長8年(930年)から承平4年(934年)にかけての時期、貫之は土佐国に国司として赴任していた。その任期を終えて土佐から京へ帰る貫之ら一行の55日間の旅路とおぼしき話を、書き手を女性に仮託し、ほとんどを仮名で日記風に綴った作品である。57首の和歌を含む内容は様々だが、中心となるのは土佐国で亡くなった愛娘を思う心情、そして行程の遅れによる帰京をはやる思いである。諧謔表現(ジョーク、駄洒落などといったユーモア)を多く用いていることも特筆される。(引用:Wikipedia)

僕が高校の授業で習った時には、その当時男の文章というのは漢字で書かれており、女はほとんど漢字を使わずひらがなを使っていた。と教えていただきました。

今回は紀貫之が女のふりをして書いた文章であるからひらがなを用いている。と教えていただきました。

また、紀貫之は和歌をやっていたためひらがなの扱いが上手く、また感情を表すにはひらがなの方が表現しやすかったとの考えもあるようです。

ちなみに、もうこの作品の著作権は切れているためこちらから読むことができます。→土佐日記(紀貫之)

紀貫之

平安時代前期の歌人・貴族。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。『古今和歌集』の選者の一人で、三十六歌仙の一人。

幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという。貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。

日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。種々の点でその実例が挙げられるが、勅撰歌人として『古今和歌集』(101首)以下の勅撰和歌集に435首の和歌作品が入集しているのは歌人の中で最高数であり、三代集時代の絶対的権威者であったといえる。

散文作品としては『土佐日記』がある。日本の日記文学で完本として伝存するものとしては最古のものであり、その後の仮名日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。

貫之の邸宅は、平安京左京一条四坊十二町に相当する。その前庭には多くの桜樹が植されており、「桜町」と称されたという。(引用:Wikipedia)

紀貫之さんは当時の文芸界において絶大な権力を持っていたことが分かりますね。

歌人として有名だったみたいですね。

土佐日記 原文

全文を読んでみたい方がいたら前で紹介した青空文庫のサイトで確認してみてください!

今回は前半の部分を抜粋して現代語訳していこうと思います。

「男もすなる日記というものを女もしてみむとてするなり。」はあまりにも有名なので、大学入試や学校のテストでもこの部分を出したくて前半部分を範囲とすることが多いように感じます。

土佐日記 紀貫之

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。

それの年(承平四年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。

そのよしいさゝかものにかきつく。

ある人縣の四年五年はてゝ例のことゞも皆しをへて、解由など取りて住むたちより出でゝ船に乘るべき所へわたる。

かれこれ知る知らぬおくりす。

年ごろよく具しつる人々(共イ)なむわかれ難く思ひてその日頻にとかくしつゝのゝしるうちに夜更けぬ。

廿二日(にイ有)、和泉の國までとたひらかにねがひたつ。

藤原の言實船路なれど馬の餞す。

上中下ながら醉ひ過ぎていと怪しくしほ海のほとりにてあざれあへり。

廿三日、八木の康教といふ人あり。

この人國に必ずしもいひつかふ者にもあらざる(二字ずイ)なり。

これぞ正しきやうにて馬の餞したる。

かみがらにやあらむ、國人の心の常として今はとて見えざなるを心あるものは恥ぢずき(ぞイ)なむきける。

これは物によりて譽むるにしもあらず。

廿四日、講師馬の餞しに出でませり。

ありとある上下童まで醉ひしれて、一文字をだに知らぬものしが、足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。

土佐日記 現代語訳

さて、いよいよ現代語訳していこうと思います!多少歪曲表現を使うかもしれませんが、まあ受験生が見て文法を勘違いしない程度には訳そうと思うので安心してください!

もし万が一何か誤った点などがあれば、問い合わせから教えていただけたら幸いです。

土佐日記 紀貫之

男がするという日記というものを、女である私もしてみようと思って書くのです。

ある年(実際は承平四年)の十二月の二十日の、午後八時ごろに旅立ちます。

その旅についてをほんの少し日記に書きつけます。

ある人が四、五年の国司としての勤めを終えて恒例の手続きなども全て終えて、解由状などを受け取って住んでいる館から出て船着場に向かいます。

あの人この人知っている人も知らない人も見送りをする。

長年親しくしていたであろう人達は別れを惜しんで一日中あれこれと騒いでいるうちに夜が更けてしまった。

二十二日、和泉まで無事に旅できるよう神仏に祈願する。

藤原のときざねが船旅だけれど馬のはなむけをする。

身分の高いものから低いものまですっかり酔っ払ってたいそう不思議なことに海のほとりでふざけ合っているのです。

(あざるという言葉の意味に腐るという意味もあります。海の近くでは魚すら腐らないのに。というシャレです。)

二十三日、八木のやすのりという人がいる。

この人は国司の役所でいつも召し使っている人ではないようです。

この人が厳かに馬のはなむけをしていました。

国司のお人柄でありましょうか、地方の人は今はもう別れの時だということで見送りに来ないものですが思いやりがある人は気兼ねせずに見送りに来ておりました。

これは贈り物を貰ったから褒めているわけではありません。

二十四日、高僧が馬のはなむけにおいでになりました。

その場にいた身分の高いものから低いもの子供まで一様に酔っ払って、一の文字さえも知らない人達が、十の文字を描くように足踏みをして楽しんでいます。

いかがでしたでしょうか?これが日本最古の日記文学です!